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文明と文化の狭間で生きて



観照的散歩家氏:「文化が精神的なもの、文明が物質的なものという区別は明らかに間違っていると思う。人権などの概念や、近代哲学や芸術はすべて近代文明が生み出したものだ。また、引用させていただいた図のとおり、近代文明は洋魂と洋才が一体になったものだ。」

今回観照的散歩家氏@Silent_Thoria 氏より貴重なコメントを頂戴したのでこれを機に、今迄書き連ねて来た文明および文化に関する記述を検証したい。

以下観照的散歩家氏の関連ツイート:

「文化も重要ではあるが、私はその上位概念である文明とは何か?が気になってしかたがない。哲学や芸術も文明のうちなのだろうか。日本も文明の一つなのだろうか。文明には、命を投げうってでも守るべき価値があるのだろうか。」
「文化というと、民族ごとに閉じている内向きなイメージがあるけれども、文明には普遍化する力があるよね。ヘレニズム文明も、ローマ文明も、近代文明も、すべてそうだ。」

「最近の私の興味は、この文明という概念だ。まず、文明は文化とどう違うのだろうか。文明:物質的、文化:精神的という区別は妥当なのだろうか。」

「文明として普遍化できずに残った特殊性が、文化ではないのかと思う。技術は、哲学や倫理に比べて普遍化しやすいのは事実だが、普遍的な真理や善もある以上、文明がすべて物質的だとは限らない。」

「日本文明と呼べるものが存在するためには、日本人の知や情に、人類普遍のものがなければならない。もしそうでなければ、日本は文明の名には値せず、単なる文化に過ぎなくなる。」

「普遍主義や倫理を拒絶するために、一部の日本人がやたらと日本文化の特殊性を持ち出すことからも、文化は文明の対立概念なのかな?」

最初のコメントに以前より疑問に感じていた文明と文化の定義を改めて考えさせられたので次のようにお返事させて頂いた、

柳田「済みません本垢が一週間ブロックされてるのでこちらからご挨拶させて頂きます、今まで僕は文化は事より文明は物よりと理解していましたが、仰られるようにこの図だと文明化は精神性であり再考の要がありますね、日本人がすぐ文化に逃げ込む姿勢こそが精神性なのかとも思えますがもう一度考え直します。」

観照的散歩家氏:「辞書でもそう書いてますよね。でも、ただ技術を手にしただけで、技術の背景にある哲学を内面化していないと文明人とは呼べないと思います。」

柳田「全く仰る通りです、結局僕も相対化し尽くして括り出したのがこの図で、相対化した結果故に正しいのだろうと考える訳で、この図から遡って今まで書き連ねたものを検証しなけれななりません。」

この答えに直接ではないが以下のようなツイートを頂いた。

「「知のために論証は必要か。」
必要とは限らない。論証は、前提により、結論の正しさを支えるために行う。しかし、私が見るこのリンゴは赤い、など知覚にもとづく知は、それ論証をするまでもなく正しい。ただ、自明ではない不確実な知については、より確実な前提で補強するため論証が必要である。」

以下は小生が過去20年に纏めた記述である。

これは生前父為正と話した時、父が文明と文化は同じだろと言ったのに対して自分が、文化は事より文明は物よりと答えた時に始まっている。
父は哲学についても趣味的な物と表現したように祖父國男の表現にかなり影響されているという事が伺われる。

「まず、『文化』とは何ぞやと言う事である。私などの意見では、文化は『改良』の意である。より良くなる事、つまり原始という語に対立するもので、従って『原始文化』の語自身が一つの矛盾であると思う。」

これは柳田國男の言葉だがまさにculture=cultivateの語源に忠実に考えた結果なのだろう。

日本固有の精神性を護る為に日本固有の真善美を再構築しようとした柳田國男の試みも、意に反して、日本の文化を近代文明の均質化の下にさらけ出すという、柳田には耐えられない自己矛盾を孕んでいる事を、彼は既に察知していたとも言える。

文明が文化のレベルを超える、或いは文化が文明に同調しない、この現象は多かれ少なかれ何処の国でも見られる。
どんなに小さな社会にでも、極端に言えば何処の家庭にでも固有の文化は存在するという事である。
それを乗り越えられるものは、精神性(善・美)を統御する真即ち真理の探究姿勢しかない。

近代文明は均質化をもたらすが、必ずしも文化と競合するとは限らない。
どこ迄が均質化によるものなのかどこからが西欧化によるものなのかを峻別せず、情緒的になり、短絡的にナショナリズムに傾くのは本末転倒であり、論理的に全ての要素を整理し識別出来る能力が要求される。

元々文明はインターナショナルなものであり、文化はナショナルなものなのであり、文明が文化を超え、それと共に文化も文明に同調する、これこそ国際と言うのに相応しいのである。
これはまさしく普遍性の追求姿勢から生じると言っても過言ではない。

元々近代文明が流入する以前の日本は、文明は文化とほぼ同等の立場にあった。 元来文化は精神性(心)に基づき、文明は物(利便性)に基づくという性質があり、近代文明の流入と共に、文化と文明のバランスが崩れ、日本固有の文化は文明に取り残されるという結果を招いてしまった。
つまり心(精神性)が物(利便性)に凌駕されてしまったのである。

これは、精神性(善及び美)を統御する真(論理)の欠如に起因しており、以来日本の精神性(メンタリティー)は発展性或いは流動性を欠いてしまい、自己完結型の論理空間の内に籠ってしまったのである。


洋魂洋才
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特別企画:「日本のリベラルは何故ファッショに走るか。」

自分が幾ら正論を吐いても相手がそれを即実践するのを期待するのはエゴであり、エゴは絶対に避けるべきであるというのが筆者の持論であるし、そもそも正論を吐く事すら憚れる昨今である。

今まで何度となく書いてきたし今更悪びれて言い訳に終始する詭弁を弄する日本人に真正面から真面目に対処する方がおかしいくらいの世相であるが今回の西部氏の死をある区切りとして自分なりの考え方を纏めておきたい。

今までも日本の学者は退官しないと本音を言わないとか、日本は遅れているのじゃなくて違っているのだと言い訳に終始して来た学者連中、普遍主義国でも上手く行ってないからと日本を正当化した叔父や日本にも科学はあると一言言って席を立った親父の世代の学者に嫌気がさしていたが、次の世代の渡部昇一、西尾幹二、田中英道そして今回入水された西部邁氏、ブルータスお前もかという感じである。

普遍主義は日本人にとってある種の鬼門であり、学者は一度はその壁にぶちあたる、所謂近代の超克である。
西部氏も自裁される覚悟をした後去年の暮れにウーマン村本氏にその事を話したそうだ。

筆者はたまたまバブルマネーの恩恵を受けて、10年間は何もしないで日本の特異体質を追求出来たので実にラッキーだったが普通はこうは行かない。
今の日本の学者で筆者みたいに、イタリアルネサンス、柳田國男、近代文明の淵源、普遍主義について研究出来る人間はいないのじゃないか。

筆者が会社を辞めて家に篭って日本の特異体質に想いを巡らせていた時文、渡部昇一氏は知的生活の方法の研究時、西尾幹二氏は個人主義の研究時、田中英道氏はダビンチの研究時、そして今回は西部邁氏、皆一時自分の抱えていた疑問にきっと何か答えを出して頂けると期待した面々である、全て裏切られた、 これで日本の学者を信じろと言う方がおかしい。

最初の頃は普遍主義に傷付いた全共闘の生き残りが、ナショナリズムの権化となり民俗学を駆け込み寺に利用したなどと言っていた、柳田國男は普遍主義に逆らってはいたが傷付いてはなかったとも。

少し前迄は自分は哲学的には普遍主義を採り政治的には大和民族党だと言って憚らなかったし、そこには大きな矛盾がある事も承知していると言って、矛盾を看過して生きてきた。

それを今回の改憲騒ぎで自民党草案が、前文の人類普遍の原理或いは人権条項を削除しようとしてる事を知り、日本は既に自分の居る国でないと判断して、最後の矛盾を取り除く為にオーストラリアの市民権を取り国籍離脱を果たした。

結局日本人は普遍主義を拒絶しているので、統一規範の選択肢が右傾化するか左傾化するかのどちらかしか無い。
自由が無いという意味ではどちらも社会主義である。
結局リベラルがファッショになったのではなくて、名称を変更しただけで中身は同じだって事である、結局選択肢がないと言う意味で一緒なのだ。

加計疑惑での前川氏の会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。

自分はオーストラリアに帰化する事で和魂洋才の捻れから逃れ洋魂洋才の環境で哲学的にもリベラル政治的にもリベラルを標榜出来る様になったと言ってるが、田原総一郎氏でさえ自由主義国は哲学的にリベラルでその下に政治的に保守かリベラルがあるって理解してないから日本人には無理な話なのかも知れない。

田原総一郎氏が高校生に他の国は保守とリベラルの二大政党制なのに、日本は両方ともリベラルだから対案が出せないとか説教垂れてたが、彼は以前も明治維新で西欧では一神教だから現人神にしたとか曖昧にぼかしてたけど、西欧は普遍主義つまり政治的にリベラルの元に保守と革新があると何故言わないのだ。

自由主義諸国では普通哲学的に普遍主義で、政治的に保守と革新に分かれるべきところ、
日本には哲学的にリベラルなんて概念は無い、その上日本では紛らわしい事に革新をリベラルと呼ぶから始末が悪い。
哲学的に保守で政治的にリベラルなんてあり得ない。

日本が聖俗未分離の前近代社会である事、近代文明が西洋文明である事から鑑みて近代文明を構築している普遍主義を避けては通れない。
それを避けて通っているのが日本である、結局日本人は文明化したくないとも言える。
だから、近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法も普遍主義で構築されているにも関わらず憲法を守れと言うとリベサヨ扱いになる。
普遍主義(洋魂)は避けては通れないのに避けて通ろうとする、洋魂は和魂で代替出来ないのに無視する。
結局普遍主義を拒絶している事に他ならない。
和魂洋才の捻れから逃れる為には洋魂洋才の環境で帰化するしか無いのである。

かくして、西部氏は入水し、自分は国籍離脱をしたという訳だ。

哲学的にリベラルの概念が欠如し保守だけの日本で政治的にリベラルを標榜する程馬鹿らしい事は無い。
西部氏も無くなった今、近代の超克を宮台、東野、津田、古市に出来るとも思えんし、もう日本人には何も期待出来ない絶望である

相対化不足

日本人を一言で表すと「相対化不足」の一語に尽きる。
相対化し尽くして回帰した後に自由裁量は来る、詰まり趣味嗜好、好き嫌いの判断である。
日本人は好き嫌いの判断を恰も善悪の判断のようにすり替えるきらいがある、詰まり相対化不足の為に主観と客観を混同しているのである、客観の客観視なら猿でも出来ると筆者が繰り返し言う所以でもある。

何故日本人は美意識先行型なのか、それは聖徳太子以来のご都合主義で仏教の結論的無常論を安易に取り入れたからじゃないのか。
詰まり本来相対化し尽くしたその後に到達する自由裁量、即趣味嗜好の世界に入り込もうとするからである。
室町時代の茶の湯の心迄は日本人も哲学的にバランスが取れていたと今迄筆者は勘違いしていたのではないかとも思う、或いはその後のルネサンスがなかったからなのか。
結局趣味嗜好は自由世界でのみ楽しめると言う事である。

政治が安定して初めて趣味嗜好の世界に生きるべきところが、趣味嗜好の世界が先行してしまう不思議。
何故日本での趣味嗜好の世界が虚しいのかそれは現実逃避であるからに他ならない。
遊戯、遊山、三昧の世界に興じる事は侘び寂びしおりとは程遠い。

日本人は相対化不足の為に常に不安定な状態にあるのではないか?
とことん追求しないから常に欲求不満の状態にある、相対化し尽くして自分の哲学を持つ事だ。
相対化し尽くした後に到達する自由裁量の世界こそが普遍主義であり、自然の摂理なのではないのか。
たまたま近代文明が西洋文明だった為に不要な葛藤と軋轢を生じたのではないのか。
近代文明が普遍主義に基づきそれが自然の摂理だとしたら只それを学べば良いだけの事であり、徒らに逆らう事は意味がない。

「理屈じゃない」の世界

RT:「「世の中きれいごとだけじゃない」とかって、得意気に言う事じゃないと思います。未来の子どもたちに綺麗な世界を渡せないって、先に生まれた者として、とても恥ずかしいことじゃないですか。」@harukazechan

「「世の中きれいごとだけじゃない」とかって、得意気に言う事じゃないと思います。」

って言うはるかぜちゃんの言葉良いよね、無垢な若者と汚れた大人の対比がこれ程鮮明に表れたのを今迄見たことがない。

「先に生まれた者として、とても恥ずかしいことじゃないですか。」

先に生まれた者、詰まり先生と名の付く方は考えるべきなのだよ。

昨日も別の件でツイしたが、

"日本人に欠けてるのはズバリこれですね、自分だけ蚊帳の外だから傷付かない、本当の事を言うと貴方も少しは大人になりなさいと言う日本人、大人しいのが大人かよ、世間の掟に逆らうのがいない、村八分がそんなに怖いか、群れから離れたくない日本人。"

大体この癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」の世界を容認しちまう日本人って狂ってるよね。
まあ正直言ってここで評論家気取りのおっさんが建前論に終始するのにも辟易させられるがね。

たまに俺も堪え切れずに内田樹大先生に歯向かったりしてる訳だが。

"日本が癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」の世界である事は昔から変わらない、それは日本には倫理規範が欠如するからだ、倫理規範が欠如する時にモラルを説くのが如何に無駄かって事をまず考える事だよ、日本は前近代、中世の未開社会なんだよ。"

以前もツイしたが、

"日本の特異体質の大部分は、全と無の間を行ったり来たりする聖俗未分離の未開性に起因する。 このオールオアナンの二分法を防ぐには個の確立が必須である、全面勝利か玉砕の二分法、美化か自虐の二分法、ネットウヨかリベサヨかの二分法皆同じだ、本音と建前の戦いとも言える、リベサヨが建前で攻めて来ればネットウヨは本音で応戦する。"

詰まり日本人が輸入のシステムを建前とし本音を温存した経緯から見ると、輸入の考え方は所謂綺麗事になる訳で、本音は依然とした「理屈じゃない」の世界なのである。

それは国会の惨状を見れば言うまでも無いが。

相対世界どっぷりの日本人

今回これだけ色々25年に亘り日本の特異体質、近代文明の淵源、普遍主義について書き捲り地べたをのたうち回り人生を捏ね繰り回し家族と縁を切ってまで国籍離脱をしハワイで一息ついていた俺のすっかりストレスが取れたというFB上の発言にストレスなんかあったの(笑)と揶揄した大学の同級生がいたので下記のようにFB上で抗議文を載せたら友録を外されてしまった。

「今回高校時代の文集の投稿をお断りしたし購入もお断りした、俺はこの25年間そこいら中に書きまくって50までは自伝も書いている、アマゾンからも3冊電子出版だが出した、人間悩みがあるから書きまくる、それを今回みたいに一言「ストレスなんてあったの(笑)」と言われてしまうのが日本人だと思っている、結局他人の事なんか一切興味がないで自分の事だけ、相対世界にどっぷり、結局日本人の友達なんてその程度だと思う、他人との比較でしか自分を測る事の出来ない日本人は不幸だと思っている、何故俺が日本人をやめたか、思想的な事もあれば家族の事もあれば病気の事もある、俺はFB始めてから理由も告げられず3人の同級生に去られているそんな時に只綺麗事で学校時代の思い出なんて書けると思うかい、そんな日本人が嫌だから国籍離脱したんだぜこちとら。
大体血液ガンで抗がん剤治療で延命してストレスが無いわきゃ無いだろうが、柳田國男の孫として生まれてサイコパスのお袋に育てられて変にならなかっただけでも幸せだと思っている、これでストレスが無いだとふざけるなって感じだ。」

ツイッターで下記のように呟いたが、

"又FBの友録から一人去った、友人を失うのはいつも同じパターン、自分と違う他人の存在が許せない日本人、これも俺の宿命だと思っている、他人には干渉しないが他人からの干渉は正面から受けて立つ、結局国籍離脱は避けられなかったって事だ、蘇生すると必ず叩かれる日本は死んだ振りをするしかない。"

以前日本の特異体質の研究していた当時の阿部謹也先生の下記の言葉を思い出してしまった。

「朝日新聞 平成十年一月十九日付夕刊でも 「伝えるということ」というコラムで以下の様に述べている。

「他者を排除する日本の根」

「中世以前からある恩や義理と結びついた複雑な人間関係がつくる『世間』は、明治以降もしっかり根づいたままだ。その解体なしに日本は変わらない、と考えている。」
「日本の社会、実は世間は、他者を排除する。盛んに国際化といわれているが、私たちが世間という時、そこには世界の人々を含んではいない。日本に暮す外国人も入ってはいない。」

阿部氏は最近の著書「日本社会で生きるということ」 の中でも更に詳しく述べられている。

「ヨーロッパ流の「個人意識」が、日本でもあるかのごとき幻想が、未だにはびこっておるわけですが、実際は、ヨーロッパ流の「個人」というものを、日本で実現するには千年のタイムラグがあり、状況の違いもあります。それよりも、日本の今「世間」のなかにある「個人」というものが、「世間」と「個」との領域を、もう少しうまく設定しながら、「個」の領域を拡げていく。「世間」の解体を、多少もたらすわけですが、「個」の領域を広げていく必要があるだろう、と思うんですね。そうしませんと、いろんな面でこれからの国際社会ではやっていけない。」」

日本人が未開なのは今回の国会のゴタゴタを見れば明らかであり、にも関わらず日本人は日本の特異体質を表層に出ている現象だけ論って原因を追究して直そうともしない、結局原因は普遍主義を拒絶しているからに他ならない。
人類普遍の原理を拒絶し、自然の摂理を無視する傲慢さ、これこそが日本が詰んでいると言う所以であり、ツイッターがエンドレスになる所以でもある。
日本人が何故此処まで頑なに普遍主義を拒絶するのか考えて見たが、それは日本人にとって普遍主義がメタフィジカ(形而上)の世界だからではないかと思った。
結局日本人は自分と向き合わないし、自分を見つめる事がないから哲学の生れようがなく、常に相対世界で生きるしかないのだ、詰まり日本人は相対世界にどっぷりなのである。
大体日本では思想と生活が全く関係ない、何故なら思想が外来だからであるとは加藤周一氏の言葉であるが、
日本人は輸入のシステムを教育システムに至るまで建前とし世間、苛めを本音として残してしまった。
客観の客観視なら猿にでも出来るというように、輸入の考え方は主観になりにくい客観なのである、詰まり建前というものは主観になりにくい客観の事を指すのである。

日本人はこの主観客観という自他の哲学に突き当たると途端に目を背ける、何故なのかそれはこの時点でメタフィジカの世界に入るからである。
日本人が猿のまま死にたくないなら自分を見つめる事である、自分がなければ始まらないのだ、個の確立こそが文明化の入り口なのである、自分を限りなく相対化して個=1を括り出す作業が個の確立である。
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