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正義のセは世間のセ

結局「御都合主義国家の終焉」でも書いたが、

1.日本は国家形成が早く統一規範としての宗教の必要性がなかった。

2.日本は海外の文化を器用に取り入れここまで発展した。

という良いとこどりならぬ都合の良いとこどりの通説が崩壊し始めたという事だ、詰まり日本は付け焼き刃の似非だという事です。

正義を曲げないと生きて行けない日本、
世間に阿らなきゃ生きて行けない日本、
妥協しなきゃ生きて行けない日本、

価値相対主義という御都合主義、
反知性主義という情緒至上主義、
忖度という世間への阿り、

皆我慢を余儀なくされている。

今回の佐川元事務次官の答弁、柳瀬元秘書官の答弁を見ていると、
今迄は弱い日本人に強く生きろって怒鳴りたくなったが、今では逆にシステムを変えない限りこの悲劇は繰り返されるとも思い始めた。

結局彼等は所属する世間の正義を貫いているだけなのである、彼等にとっては仕事をしているだけなのだ。
所謂優等生ならではの間違いなのである、見方を変えれば彼等は優等生のロールモデルでもあり同時に彼等もこの世間の被害者とも言えるのだ。

皆、正義を曲げなきゃ生きて行けない社会、世間に阿らなきゃ生きて行けない社会、妥協しなきゃ生きて行けない社会に嫌気がさしてるんじゃないのだろうか、佐川君も、柳瀬君も、前川君も一緒だと思う、何故彼等だけに正義を貫けと要求出来るのだろうか?
皆究極の選択を迫られたら世間に阿るだろうし、妥協するだろう、正義だって曲げるだろう、何せ事勿れの長いものには巻かれろの日本人なんだから、他人ばかり責めないで胸に手を当てて考えてみたらどうだ、自分なら潔く真実を述べ辞められるかって。

これなのだ、日本人が皆意地悪な原因ってのは、自分だけ要領良く生き残ろうとするから他人の不幸は我が身の幸せになるんだと思う。

頭が良いより小利口な奴等が出世する世界、安倍と麻生見てりゃ分かるだろう。

これだけ言っても、正義すら相対化する日本で、世間こそが正義であり、一番大きな世間に属する人間が必ず勝つシステムをどうにかしようとするどころか、その一番大きな世間にどうにかして入り込もうとするのが日本人なのだ。

今回財務大臣副総理迄が後で詫びて訂正したものの、個人的な意見と世間的な意見は違うと言い放った。

個人の正義は無視され世間の正義がごり押しされる社会と世間の二重構造こそが諸悪の根源である。

今回のセクハラにおける麻生大臣の発言と佐川、柳瀬の虚偽答弁の件は日本の最大の特異体質である社会と世間の二重構造を図らずも如実に捉えている、これこそが日本人の文明化を阻んでいる最大の要素と言っても過言では無い。
個の確立こそが文明化の要だという時に、未だに日本が前近代中世社会のままなのはこの社会と世間の二重構造を看過するからだ。

俺の70年の人生の完全否定もさる事ながら、現在見られる改憲騒動、右傾化等時代逆行の動きは到底受け入れられるものではなく、団塊の世代が生きた時代だけが辛うじて平和だったという皮肉な結果に終わった事は誠に残念でならない。

でも佐川と柳瀬の虚偽答弁を見ても、本人が悪いと言い続け、この世間に阿らなきゃ生きて行けないシステムを変えようともしない日本人の無責任さ、蚊帳の外症候群、当事者意識、参画意識の欠如には辟易される。
自分が同じ立場だったら正直に話すとでも言いたげではないか偽善者どもは。
幾ら阿部謹也先生が、世間を壊すのは不可能です、西欧の個人と日本の個人は違うのです、遅れではなく違う文明文化なのですと言っても、言い訳に過ぎず、個が確立出来ない限り日本は前近代、中世社会のままに変わりはない。
学者が言い訳に終始する国に未来があるわけがない。

それにしても阿部謹也先生の世間肯定論には実に失望させられた、結局日本の学者は日本の遅れを指摘してはいけないと圧力が掛かってるとしか思えない、俺の親父叔父はたまた祖父に至るまで言い訳を言わなかった学者は居ない。
普遍主義を否定してまで日本の無謬性を主張するのは間違っている。

でも正義すら相対化して世間こそが正義な社会を変えない限り、この佐川、柳瀬虚偽答弁の恥ずべき茶番は繰り返すってのに、何故もっと建設的な意見が出ないのか不思議だ日本人って生き物は。

世間を肯定する阿部謹也先生の説は、今回の麻生大臣の個人的意見と世間的な意見は違うという発言と、佐川、柳瀬虚偽発言に見られる、世間の正義が個人の正義に優先されるという正義の相対化を許容する事なので受け入れる事は到底出来ない。

近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法が制定されているにも拘らずここまで普遍主義を拒絶する。
阿部謹也先生にまで自由意志か強制か知らんが世間肯定論を吹聴させる。
日本は自由よりも寧ろ秩序を好むイスラムと同じだと以前書いたがイスラムを自由主義に改宗するのと同じ位難しい。

要するに普遍主義を否定する日本はイスラム社会と一緒、
聖俗一致で普遍主義を否定するイスラム社会、聖俗未分離で普遍主義を否定する日本、自由より寧ろ秩序を好むと言う点で似ているがイスラムは自分の意思、日本は未開だからの違い恥ずかしいとも思わない恥ずかしい人種が日本人だ。

結局近代文明が普遍主義で構築されている事実を無視してまで大学者が世間を肯定する異常さを国民が理解しないのだから絶望と言っても過言ではない
今回のような嘘がまかり通り一件があっても気が付かない馬鹿な日本人。
世間に阿らなきゃ(忖度)生きて行けないシステムを残しておいて忖度する人間を幾ら責めても何ら問題は解決しない。

矢張り何回も言うが、ここまで普遍主義を拒絶して残る統一規範は右傾化か左傾化しかないのだよ、何れにせよ自由は期待出来ないのだから、残された道は我慢するか逃げるかしかない。

俺は逃げたし、皆様にも逃げる事をお勧めする次第です。
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御都合主義国家の終焉

以前「彷徨える日本人の魂」というタイトルでこんな事を書いていたのを思い出す。

「ファー・イーストでもなくファー・ウェストでもなく西と東の狭間を恰もイソップの蝙蝠の様に彷徨う日本人。 」

「ヒューマニズムでもなく、ナチュラリズムでもなく、文明と文化、インターナショナルとナショナルの狭間を彷徨い続ける。 人は物と心の間を彷徨い、全と無の間を彷徨い続ける、この何れの対比も物と心の関係なのである。 」

「これは全て独自の宇宙観の欠如から来る。 宇宙対人間の構図を追求する姿勢の欠如は人間の宇宙観(コスモロジー)を狭めてしまう。 」

「つまり、マクロ・コスモスとミクロ・コスモスの関係を明確にする論理が無い為、精神性(善と美)を統御する真(論理)、つまり物と心を繋ぐ論理が欠如するまま文明に流され続けてしまうのである。」

今回日本抜きで南北朝鮮、中国、アメリカの歩み寄りにより遂に日本はイソップの蝙蝠の様に仲間はずれになった、これは聖徳太子以来の御都合主義の終焉とも言える。

今回の右傾化騒動で、何故日本人が俺が25年掛けて括り出したあの近代文明、洋魂洋才の図に興味を示さないのか少し判った様な気がした。

何故なのだろう、それは日本人は近代文明がロジカルに構築されている事すら知らないからだ、西洋人の認識も自分等と同じ程度だと思ってるに違いない。

未開だから理解出来ない、理解出来ないから未開のままなのである。

普遍主義を拒絶して残る統一規範は右傾化か左傾化しか無い、何れにせよそこに自由は無い。
普遍主義を自然の摂理と信じる者にとって日本は住み難い国なのだ、何故か、それは日本には哲学的にリベラルと言う概念が欠如するからである。

当初柳田國男が教義の無い神道の為のバイブル作りを試みた様に、孫としては近代文明の日本語取扱説明書を創ろうと思ったのだが、日本が普遍主義を拒絶し右傾化に舵を切ってしまったので必要がなくなってしまった。

一体俺の70年の人生は何だったって思う、生まれた時から新憲法の元で教育されて科学の進歩と共に育ってまさに自由主義諸国の仲間入りが出来るとこまで来て、ドン底に突き落とされた感じだ、国籍離脱が如何に正しい決断だったか今更ながらに思う。

団塊の世代の自分は幼い時から日本国憲法の下に自由、平等、博愛を信じ、人間は科学の進歩と共に幸福になると信じて育って来たのであり今回の右傾化騒動はこれを根底から否定するものである。

俺の70年の人生も40に始めた日本の特異体質及び近代文明の研究並びに柳田國男の研究も無駄だった事になる。

普遍主義を学ぼうともせず右傾化に逃げる事は日本の終焉を意味する。
少なくとも俺の70年の人生は全て否定されたも同じである。
図を見て頂けば一目瞭然だが、近代文明は自分が無ければ始まらないのである。

結局自分の欠如する日本人は始まってもいない、大人になっていないと言う事だ。
生まれてすぐ大人になる西洋人、かたや死んでから大人になる日本人、何故か、それは日本人は自分と向き合う事を要求されないからである。

自由より寧ろ秩序を好むと言う点で、日本はイスラム社会と似ている、聖俗一致を唱え普遍主義を拒絶するイスラム社会、かたや聖俗未分離で普遍主義を拒絶する日本、その違いは大きい。

イスラムは大人であり、日本は子供だと言う事だ。

大人になりたくない症候群、ピーターパンシンドローム、自由よろ寧ろ秩序を好む。
マゾにはファッショがお似合い。
猫に小判、豚に真珠、日本人に憲法。

日本人=ネットウヨ=内弁慶=負け惜しみ=言い訳の人生=甘えの構造=天皇の赤子の構図は永遠に続く。

国の方針が普遍主義を拒絶する右傾化だとすると、幾ら普遍主義の仕組みを説いても無駄なわけで、国民が自由、平等、博愛を希求しても無理だと言う事だ。
これで日本も名実共に世間主義人民共和国になったのである。
洋魂洋才

文明と文化の狭間で生きて



観照的散歩家氏:「文化が精神的なもの、文明が物質的なものという区別は明らかに間違っていると思う。人権などの概念や、近代哲学や芸術はすべて近代文明が生み出したものだ。また、引用させていただいた図のとおり、近代文明は洋魂と洋才が一体になったものだ。」

今回観照的散歩家氏@Silent_Thoria 氏より貴重なコメントを頂戴したのでこれを機に、今迄書き連ねて来た文明および文化に関する記述を検証したい。

以下観照的散歩家氏の関連ツイート:

「文化も重要ではあるが、私はその上位概念である文明とは何か?が気になってしかたがない。哲学や芸術も文明のうちなのだろうか。日本も文明の一つなのだろうか。文明には、命を投げうってでも守るべき価値があるのだろうか。」
「文化というと、民族ごとに閉じている内向きなイメージがあるけれども、文明には普遍化する力があるよね。ヘレニズム文明も、ローマ文明も、近代文明も、すべてそうだ。」

「最近の私の興味は、この文明という概念だ。まず、文明は文化とどう違うのだろうか。文明:物質的、文化:精神的という区別は妥当なのだろうか。」

「文明として普遍化できずに残った特殊性が、文化ではないのかと思う。技術は、哲学や倫理に比べて普遍化しやすいのは事実だが、普遍的な真理や善もある以上、文明がすべて物質的だとは限らない。」

「日本文明と呼べるものが存在するためには、日本人の知や情に、人類普遍のものがなければならない。もしそうでなければ、日本は文明の名には値せず、単なる文化に過ぎなくなる。」

「普遍主義や倫理を拒絶するために、一部の日本人がやたらと日本文化の特殊性を持ち出すことからも、文化は文明の対立概念なのかな?」

最初のコメントに以前より疑問に感じていた文明と文化の定義を改めて考えさせられたので次のようにお返事させて頂いた、

柳田「済みません本垢が一週間ブロックされてるのでこちらからご挨拶させて頂きます、今まで僕は文化は事より文明は物よりと理解していましたが、仰られるようにこの図だと文明化は精神性であり再考の要がありますね、日本人がすぐ文化に逃げ込む姿勢こそが精神性なのかとも思えますがもう一度考え直します。」

観照的散歩家氏:「辞書でもそう書いてますよね。でも、ただ技術を手にしただけで、技術の背景にある哲学を内面化していないと文明人とは呼べないと思います。」

柳田「全く仰る通りです、結局僕も相対化し尽くして括り出したのがこの図で、相対化した結果故に正しいのだろうと考える訳で、この図から遡って今まで書き連ねたものを検証しなけれななりません。」

この答えに直接ではないが以下のようなツイートを頂いた。

「「知のために論証は必要か。」
必要とは限らない。論証は、前提により、結論の正しさを支えるために行う。しかし、私が見るこのリンゴは赤い、など知覚にもとづく知は、それ論証をするまでもなく正しい。ただ、自明ではない不確実な知については、より確実な前提で補強するため論証が必要である。」

以下は小生が過去20年に纏めた記述である。

これは生前父為正と話した時、父が文明と文化は同じだろと言ったのに対して自分が、文化は事より文明は物よりと答えた時に始まっている。
父は哲学についても趣味的な物と表現したように祖父國男の表現にかなり影響されているという事が伺われる。

「まず、『文化』とは何ぞやと言う事である。私などの意見では、文化は『改良』の意である。より良くなる事、つまり原始という語に対立するもので、従って『原始文化』の語自身が一つの矛盾であると思う。」

これは柳田國男の言葉だがまさにculture=cultivateの語源に忠実に考えた結果なのだろう。

日本固有の精神性を護る為に日本固有の真善美を再構築しようとした柳田國男の試みも、意に反して、日本の文化を近代文明の均質化の下にさらけ出すという、柳田には耐えられない自己矛盾を孕んでいる事を、彼は既に察知していたとも言える。

文明が文化のレベルを超える、或いは文化が文明に同調しない、この現象は多かれ少なかれ何処の国でも見られる。
どんなに小さな社会にでも、極端に言えば何処の家庭にでも固有の文化は存在するという事である。
それを乗り越えられるものは、精神性(善・美)を統御する真即ち真理の探究姿勢しかない。

近代文明は均質化をもたらすが、必ずしも文化と競合するとは限らない。
どこ迄が均質化によるものなのかどこからが西欧化によるものなのかを峻別せず、情緒的になり、短絡的にナショナリズムに傾くのは本末転倒であり、論理的に全ての要素を整理し識別出来る能力が要求される。

元々文明はインターナショナルなものであり、文化はナショナルなものなのであり、文明が文化を超え、それと共に文化も文明に同調する、これこそ国際と言うのに相応しいのである。
これはまさしく普遍性の追求姿勢から生じると言っても過言ではない。

元々近代文明が流入する以前の日本は、文明は文化とほぼ同等の立場にあった。 元来文化は精神性(心)に基づき、文明は物(利便性)に基づくという性質があり、近代文明の流入と共に、文化と文明のバランスが崩れ、日本固有の文化は文明に取り残されるという結果を招いてしまった。
つまり心(精神性)が物(利便性)に凌駕されてしまったのである。

これは、精神性(善及び美)を統御する真(論理)の欠如に起因しており、以来日本の精神性(メンタリティー)は発展性或いは流動性を欠いてしまい、自己完結型の論理空間の内に籠ってしまったのである。


洋魂洋才

特別企画:「日本のリベラルは何故ファッショに走るか。」

自分が幾ら正論を吐いても相手がそれを即実践するのを期待するのはエゴであり、エゴは絶対に避けるべきであるというのが筆者の持論であるし、そもそも正論を吐く事すら憚れる昨今である。

今まで何度となく書いてきたし今更悪びれて言い訳に終始する詭弁を弄する日本人に真正面から真面目に対処する方がおかしいくらいの世相であるが今回の西部氏の死をある区切りとして自分なりの考え方を纏めておきたい。

今までも日本の学者は退官しないと本音を言わないとか、日本は遅れているのじゃなくて違っているのだと言い訳に終始して来た学者連中、普遍主義国でも上手く行ってないからと日本を正当化した叔父や日本にも科学はあると一言言って席を立った親父の世代の学者に嫌気がさしていたが、次の世代の渡部昇一、西尾幹二、田中英道そして今回入水された西部邁氏、ブルータスお前もかという感じである。

普遍主義は日本人にとってある種の鬼門であり、学者は一度はその壁にぶちあたる、所謂近代の超克である。
西部氏も自裁される覚悟をした後去年の暮れにウーマン村本氏にその事を話したそうだ。

筆者はたまたまバブルマネーの恩恵を受けて、10年間は何もしないで日本の特異体質を追求出来たので実にラッキーだったが普通はこうは行かない。
今の日本の学者で筆者みたいに、イタリアルネサンス、柳田國男、近代文明の淵源、普遍主義について研究出来る人間はいないのじゃないか。

筆者が会社を辞めて家に篭って日本の特異体質に想いを巡らせていた時文、渡部昇一氏は知的生活の方法の研究時、西尾幹二氏は個人主義の研究時、田中英道氏はダビンチの研究時、そして今回は西部邁氏、皆一時自分の抱えていた疑問にきっと何か答えを出して頂けると期待した面々である、全て裏切られた、 これで日本の学者を信じろと言う方がおかしい。

最初の頃は普遍主義に傷付いた全共闘の生き残りが、ナショナリズムの権化となり民俗学を駆け込み寺に利用したなどと言っていた、柳田國男は普遍主義に逆らってはいたが傷付いてはなかったとも。

少し前迄は自分は哲学的には普遍主義を採り政治的には大和民族党だと言って憚らなかったし、そこには大きな矛盾がある事も承知していると言って、矛盾を看過して生きてきた。

それを今回の改憲騒ぎで自民党草案が、前文の人類普遍の原理或いは人権条項を削除しようとしてる事を知り、日本は既に自分の居る国でないと判断して、最後の矛盾を取り除く為にオーストラリアの市民権を取り国籍離脱を果たした。

結局日本人は普遍主義を拒絶しているので、統一規範の選択肢が右傾化するか左傾化するかのどちらかしか無い。
自由が無いという意味ではどちらも社会主義である。
結局リベラルがファッショになったのではなくて、名称を変更しただけで中身は同じだって事である、結局選択肢がないと言う意味で一緒なのだ。

加計疑惑での前川氏の会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。

自分はオーストラリアに帰化する事で和魂洋才の捻れから逃れ洋魂洋才の環境で哲学的にもリベラル政治的にもリベラルを標榜出来る様になったと言ってるが、田原総一郎氏でさえ自由主義国は哲学的にリベラルでその下に政治的に保守かリベラルがあるって理解してないから日本人には無理な話なのかも知れない。

田原総一郎氏が高校生に他の国は保守とリベラルの二大政党制なのに、日本は両方ともリベラルだから対案が出せないとか説教垂れてたが、彼は以前も明治維新で西欧では一神教だから現人神にしたとか曖昧にぼかしてたけど、西欧は普遍主義つまり政治的にリベラルの元に保守と革新があると何故言わないのだ。

自由主義諸国では普通哲学的に普遍主義で、政治的に保守と革新に分かれるべきところ、
日本には哲学的にリベラルなんて概念は無い、その上日本では紛らわしい事に革新をリベラルと呼ぶから始末が悪い。
哲学的に保守で政治的にリベラルなんてあり得ない。

日本が聖俗未分離の前近代社会である事、近代文明が西洋文明である事から鑑みて近代文明を構築している普遍主義を避けては通れない。
それを避けて通っているのが日本である、結局日本人は文明化したくないとも言える。
だから、近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法も普遍主義で構築されているにも関わらず憲法を守れと言うとリベサヨ扱いになる。
普遍主義(洋魂)は避けては通れないのに避けて通ろうとする、洋魂は和魂で代替出来ないのに無視する。
結局普遍主義を拒絶している事に他ならない。
和魂洋才の捻れから逃れる為には洋魂洋才の環境で帰化するしか無いのである。

かくして、西部氏は入水し、自分は国籍離脱をしたという訳だ。

哲学的にリベラルの概念が欠如し保守だけの日本で政治的にリベラルを標榜する程馬鹿らしい事は無い。
西部氏も無くなった今、近代の超克を宮台、東野、津田、古市に出来るとも思えんし、もう日本人には何も期待出来ない絶望である

相対化不足

日本人を一言で表すと「相対化不足」の一語に尽きる。
相対化し尽くして回帰した後に自由裁量は来る、詰まり趣味嗜好、好き嫌いの判断である。
日本人は好き嫌いの判断を恰も善悪の判断のようにすり替えるきらいがある、詰まり相対化不足の為に主観と客観を混同しているのである、客観の客観視なら猿でも出来ると筆者が繰り返し言う所以でもある。

何故日本人は美意識先行型なのか、それは聖徳太子以来のご都合主義で仏教の結論的無常論を安易に取り入れたからじゃないのか。
詰まり本来相対化し尽くしたその後に到達する自由裁量、即趣味嗜好の世界に入り込もうとするからである。
室町時代の茶の湯の心迄は日本人も哲学的にバランスが取れていたと今迄筆者は勘違いしていたのではないかとも思う、或いはその後のルネサンスがなかったからなのか。
結局趣味嗜好は自由世界でのみ楽しめると言う事である。

政治が安定して初めて趣味嗜好の世界に生きるべきところが、趣味嗜好の世界が先行してしまう不思議。
何故日本での趣味嗜好の世界が虚しいのかそれは現実逃避であるからに他ならない。
遊戯、遊山、三昧の世界に興じる事は侘び寂びしおりとは程遠い。

日本人は相対化不足の為に常に不安定な状態にあるのではないか?
とことん追求しないから常に欲求不満の状態にある、相対化し尽くして自分の哲学を持つ事だ。
相対化し尽くした後に到達する自由裁量の世界こそが普遍主義であり、自然の摂理なのではないのか。
たまたま近代文明が西洋文明だった為に不要な葛藤と軋轢を生じたのではないのか。
近代文明が普遍主義に基づきそれが自然の摂理だとしたら只それを学べば良いだけの事であり、徒らに逆らう事は意味がない。
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Yoshiaki Yanagita

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